本格的キャンプへ
同じ、思い出になりますが、キャンプは始めると道具が欲しくなる、道具が揃うとますますキャンプにのめり込む。結局はこの繰り返しで本格的になっていくものです。その通り道具は少しづつ増えていきました。キャンプも近場で何回かしました。
その頃、丁度アウトドアブームがあり、巷では色々な情報が出ていました。しかし、ビギナーの私たちはその情報の具体性にも入れられないほどの初心者だったといえます。キャンプ道具メーカーのコールマンなど、ただの外国製品としか認識もないぐらいでした。でも、キャンプをやりたいという私の希望、いや夢はそんなことなどその頃はどうでも良いことでした。
繰り返しになりますが、子どもの頃は、山の中をはいずり回って?遊んでました。体が不自由な為、みんなについていくのも大変でしたが、誰かが必ず待っていてくれたものです。それが今にない昔の子供たちの良いところでもあったのです。薩摩独特の郷中教育の良さの一部でもありました。このことは後に触れることもあると思います。何はともあれ、その自然の中での遊び、この面白さはそのまま大人になっても忘れられないものです。山ぶどう、柿、山芋、あけびとりなど、また蜂の巣とり、川遊びや魚釣、魚焼きやたき火、ナイフとマッチ、塩さえあればほぼ何でもできました。山に迷っても2〜3日は生き延びる術ぐらいは持ってましたね。ファミコンブームとかありましたが、それも子どもと一緒に凝りましたが、やはり田舎の創造的な遊びには足下にも及びませんね。これらの内容に関しては今の子供たちに教えたいものです。
私の子供らにも知って貰いたかったのもキャンプに集中した動機でもあります。私らはそのブームにのっかった訳でもなんでもなく、たまたま初めが一緒だった訳で、車も箱になった方がきっかけ的には強いですね。その頃、気に入っていたキャンプ場はかなり混んでいましたが、今じゃほとんどいません。何回かしましたが、誰もいない時がほとんどです。ま、気楽で一向に構わないですけどね。
> キャンプでの遠出は阿蘇が一番最初でした。5月はいつも旅行の予約が必要でしたが、初めて、行き当たりばったりで必要道具や食料を積んで阿蘇に向かいました。キャンプ場はほとんど知らず、前に来たことのある音楽イベント「カントリーゴールド」の時に気付いた、小さなキャンプ場に行ったのです。ブナの林の中の普通のキャンプ場でしたが、バイクでの若者も来てました。その夜は彼らとも楽しく語らいながら、過ごしました。雨が少し降ってたのとトイレが今一でしたが、次の日は金のかからない広場などで目一杯遊んで帰りました。
キャンプ事始め、大ドジ!
テントとランタンを買っただけで、キャンプが出来ると思ったのは素人のあさはかな考えだったのでしょうね。
それは16〜7年前のこと。懐かしい想い出だ。まずは近場でやってみよう。その候補に上がったのが、夏の間だけキャンプが出来る場所でそれ以外は勝手にできるスペースのある海水浴場の松林、錦江湾の奥にあります。ここはアウトドアの先輩友人が教えてくれた所で穴場なのです。トイレだけは使えるようなってますが、もちろん障害者用ではない。今ここは残念ながら良からぬ人たちが騒ぎ過ぎた所為か夜は施錠されてしまいました。いい場所だったのに・・・
飯を作る道具も何もないので、とりあえず家内が弁当だけをこさえて、夏休みの夕方そこに向かいました。常連の人たちのテントが5〜6張すでに出来ています。その隙間に入らさせて貰いました。さて設営。といってもテントを張るだけなのだが張ったことがない。説明書を見ながら始める。簡単かと思いきやそうはいかない。まだ少し明るかったので、今のうちに早く済ませたい。今でこそ子供たちも大人なので何も私がする事はないが、その時長男はまだ中学生、残りは小学生でした。私は不自由な体でもこういったことも好きだし、あまりそんなに苦にはならなかったですね。しかし、多少焦りが出て来てました。
テントはロッジ型なので、まず骨組みが必要です。それは何とかできました。次に中の方のインナーテントを張ります。骨組みに固定するのですが、ぶら下げてみると何となく違和感があります。下の方はペグを打つのですが、これも何となくしっくり来ない。時間だけが経っていき、焦りも大きくなって来た。隣の住人さんはもう夕げの支度だ。こちらを見ながら何かほくそ笑んでいる感じがする。その時、図を見て気がついた。
長男と家内が色々試している。「ちょっと待て。とりあえず外せ。」でももうある程度固定している。さっきの視線が気になる。「どうでもいいから早く外せ。訳はあと。」なんと逆さまに張っていた。やばい、笑うはずだ。訳も分からず家内達は外し始め、私も手伝い完全に外し終えた。こっそり家内に(逆さまだ・・)と伝えた。家内途端に赤くなり(え〜っ)。ビギナーとはいえとんだドジだ。隣もこっちが一生懸命なので言い出しづらかったのだろう。時間もかかってるし、回りも困ったことだったろうなぁ。
取りあえず、今度はとっとと作り終えた。しかし、ホッとする間もなく、回りは暗くなった。ランタンに火を灯さないと。しかし、これも触ったことがない。火をつけるだけだろうに・・という甘い考えがドジに輪をかける。経験のある人はなんてことないのだが、ランタンにはマントルという真ん中の燃える芯になるものがある。こいつが”問題だ。こいつを一回燃やさないといけない。その仕組みが分かったのも20〜30分後、そして買いおきのそのマントルも全て使い果たし、結局少し中途半端に燃えたマントルだけが残り、怪しげな光を放つランタンがようやく出来ました。は〜あ。
さて、飯だ。簡単な弁当だが潮風を浴びながら、家族みんなで楽しいささやかな夕げが始まった。ビールも美味い。夢だったアウトドアが出来た。普通の人には何ともないことかも知れないが、単純な私はとても幸せに思えたもんです。子供らも食べ終えて走り回ってます。桜島にかかる月がまた奇麗でしたね。夜も更けた寝よ〜っと。・・が
マットも寝袋もまだ買ってない、持ってきたのは毛布のみ、下が固い。少し石もある。やっぱビギナーです。そんなことは何にも考えていない。設置場所を間違えた、いや石を取れば良かっただけ。寝られたもんじゃなかったですね。しかし、子どもは強い。幼い頃から色々な所に旅行し、車の中でも寝た経験もあるのでぐーぐー寝ている。
さて、私ら夫婦は寝つけませんでしたが、爽やかな朝は迎えました。今回は実験キャンプだったんで、もう帰ります。手分けして片づけます。末っ子はまだ小学低学年でしたが、甘やかすことはしません。必ず出来る仕事を与えます。ペグなどやロープを集めさせ数を確かめさせて管理させます。以来、彼は黙ってても完全に管理するようになりました。私が不自由なだけにこういったことは自然と育つみたいですね。
本当に懐かしい想い出です。
普通の旅行からアウトドアへ
昔からやっているキャンプなどについて少しづつ書いてみます。
5月の連休は私の母も含めて6人であちこちと旅行をしたのは少し前に書きましたが、実は子どもが大きくなったのと、1200ccのホンダシティでは無理が出て来だしたのです。法的には6人乗れましたが、狭い狭い。母も一緒に行くのも大変になり、普通のドライブも(その頃少しゆとりも出来てきて、連休以外にも遊びに行けるようになっていた)断る事もあるようになってきて、それで箱型が欲しくなったとの経緯もあるのです。
でも、せっかくボンゴを買ったのに、丁度その頃から母も認知症の傾向が始まり、さっぱりついて来なくなりました。それから一緒に行けたのは数回きりでしたね。本当に残念な事でした。どこにでもある嫁姑の確執もうちの場合も当然ありました。しかし、何年もしないうちに何ともなくなったのは旅行がきっかけでした。普通の仲の良い親子になってくれたのです。ですから、いけなくなった事は辛いものがありました。一方で父が亡くなり、大学に行かせてもらったりと随分苦労をかけましたが、ま、兄弟の中では一番あちこち連れて行ったり、孫達と楽しく過ごさせた事は何よりの恩返しだったと思ったりもしています。それからは声掛けはもちろんしましたが、行こうとしなかったので、仕方なく私の家族だけで行く事が多くなりましたね。近場から遠くまで良く行ったと思います。
で、時折、釣りとかも行ったりして段々アウトドアに傾いて行きました。そして、テントに手を出したのが、今度はそう、キャンプもアウトドアの仲間に入ってきたきっかけになったのでした。ついに障害を持っておる私の小さな夢が叶いつつあったのです。小さい頃、不自由な体でも野山に行くのが大好きで、自然のその何ともいえない楽しさが今度は家族と再度味わえると思うとワクワクしたものです。さらに、子供たちにも必ずいい影響が出ると思うのも教育の一環として楽しみでもあったのです。
そして、ランタンも買いました。テントとランタンがあればまずキャンプはできます。事始めでした。
年末・阿蘇のロッジ(最近の旅行)-2
ここ「ファームヴェレッジ産山は朝は寒い。寝室は2階で半吹き抜けになっているので、薪ストーブの熱が上に昇り結構温かいのですが、1階は木の床が非常に冷たく感じます。本来、1階では寝てはいけないらしいのですが、私は障害者なので下に布団を敷いてもらって寝ています。朝方になるとその床が冷たくなり、布団を敷いても結構寒いですね。でも朝から昨晩の余った薪で火を起こすのですぐには温かくなります。
朝は夕べの残りの焼き肉を手っ取り早くタレで混ぜたものと目玉焼きで朝食をとり、9時半にはチェックアウト。近くの「産山牧場」に行きました。ここは入場は無料なので良く行きます。ヨーグルトとアイスクリームが美味しいですよ。乗馬やほろ馬車、べーベキュー、パターゴルフ、ウサギやヤギ・羊など色々と自然の遊びができます。羊には笑いましたね。柵越しに手招きしたのですが見向きもしない。ところが、息子が近くにある100円の餌に気付き、そっちへ向かうと、その瞬間彼らはどっとやってくる。やっぱ知ってるんですね。賢いというかなんというか、みんな笑い転げました。
そこを後にし、広ーい阿蘇高原を走り、やまなみハイウェイから横切る形で阿蘇ミルクロードを通り、菊池へ向かいました。その途中の菊池渓谷より、細い山道に入ります。まず初めての人にはわからないと思いますね。以前家内と逆に来た事があり、道順は頭に入っています。私は必ずといっていいほど、ドライブすると人の知らないわき道にはいります。山の風景が大好きですし、そのドキドキ感もたまらないですね。かといって、ここの道はひどくないです。きれいな道路です。車とも滅多に会いません。田舎や山林地帯には地図やナビにはメインとしては載らない、農免道路があるのです。これはネットでググって貰えればわかります。山の中にも忽然として出てくることもあります。もちろん脇道は細いのがほとんどですが。
そこの道を通って(多分農免道路の林道に当たる?)菊池の東に当たる山の中に「四季の里」に行きました。まぁ、どこもそうですが、こんな観光スポットというのは開設当初は人が多くても、だいたい2〜3年もすれば極端に少なくなるものです。年末というのにほとんど人はいません。私みたいな天の邪鬼にはうってつけの場所です。そこで男組と女組に別れ、家族湯(1棟1000円)に入りました。とってもいい湯でした。障害者も入りやすいと思います。家族湯の安いところは九州だけですね。今のところは。四国にもありましたが、高い、少ない。障害者や高齢者には一番いいのですけどね。この事も別に書きます。
風呂から上がったら、帰るのみ。そろそろ昼も近づいて来たので、熊本のラーメンを食おうということになって、熊本ICを目指し、大津へと。カーナビに目的地を設定したところ「目的地までの地図データがありません」ですと。ここは山の中、あれ〜っ。データ的には最近なんだけどな。仕方ないんで、地図を頼りました。もちろん、目的地まで行けましたが、この山の中にも先ほどの林道が出てきました。帰ってから確かめましたが、ゼンリンにもGoogleEarthにもありませんでした。
そして、熊本IC近くの「馬力家」というラーメン屋によって帰りました。障害者jは少し入りにくいですね。この旅行はいい旅でした。一年の垢落としには最高でしたね。この項終り。
雄大な阿蘇、何度行ってもいいですね。もう20回以上行ってます。
濃厚な味です。若者には美味しいラーメンです。年配者には少し濃いかな。
年末・阿蘇のロッジ(最近の旅行)-1
昨年はやらなかったんですが、今年の年末は久しぶりに家族4人(私ども夫婦と長男・長女)で旅行をしました。といっても1泊2日の遊びです。いつも行くところなんですが、阿蘇の産山にあるロッジです。鹿児島から29日朝に高速に乗り一端人吉(山江IC)で降り、人吉駅近くで鮎寿司(大好物でこの話はまた別項で)を買い、今度は下道で球磨川を八代までのんびりドライブをしました。
川が本当にきれいでした。途中でその鮎寿司も堪能しましたが、久しぶりだったんで美味しかったですね。八代からは高速に乗り、益城(熊本空港IC)で降り、俵峠の方に向かい、南阿蘇に到達。普通はそこから国道を通り高森方面に行くのですが、私は天の邪鬼なので、幹線道路は余り通りません。国道より阿蘇山よりの裏道を通ります。ここいらは別荘地帯ですし、野生猿も時々遊んでいます。秋は紅葉がきれいな道です。今回は幹線道路も使いましたが、いつもは三船ICで降り、吉無田方面に向かい阿蘇外輪山の南を越える阿蘇グリーンロードを通るのですけどね。この道は景色が本当にきれい。オススメです。
そして波野経由で、産山の「ファームヴェレッジ産山」に到着しました。ゆっくりでおよそ4時間かかりました。早く行けば簡単に行けるんですが、そこはドライブを楽しむということで。ここのロッジは4人1棟で12,000円、安いです。シーズンオフということでしたが次の日の30日は16,000円だったらしいです。ラッキーでした。
さて、薪ストーブに火を入れようとしたんですが、これがなかなか付かない。薪が濡れているんです。息子が何度か挑戦しましたが、一見燃え盛るみたいに見えますが、すぐに消えてしまうんですね。やむなく薪を変えてもらい再度やりましたが、これも若干湿気が残っていて、燃え上がるまでに相当時間がかかりました。ま、これも楽しさですけどね。
このロッジは様式トイレから、お風呂、食器、炊飯器などほとんど付いているんで、食料さえあれば楽しめますよ。車椅子の方は最初に上げて貰えば大丈夫だと思います。トイレは狭いですけどね。それと、薪ストーブを使わなくても石油ストーブもエアコンもありますので、十分に楽しめるロッジです。もちろん宴会はギターや歌で盛り上がりました。音も外にはなかなか漏れませんので大丈夫です。・・続く
障害者の車の免許-4
ホンダシティの寿命が来ていたので、次は何にするか迷っていました。重量制限(1.2t)のため車種選定に限りがあり、悩んでました。普通車でも1200ccぐらいまでしか乗れないし、子どもは大きくなってくる。家族5人だけでもみんな乗るとかなり窮屈で、しかもお袋まで連れて旅行に行くには1.2tは限界が来ていました。これは重量をせめて1.5tに書き換えないともっと大型の車には乗れない、せめて1600ccクラス。そこでいよいよ書き換えに行く事になりました。
するとたまたま免許更新の時期に来ていたので、やり方をついでに聞こうかと思い、眼鏡等の審査窓口で聞いてみました。その前にその担当の人、以前書きましたが私の免許のゴチャゴチャした裏面の条件「手動式アクセルブレーキ」「旋回式ハンドル装置付」「三・四輪に限る」「オートマチック車に限る」「総重量1.2tまで」を見て、「何これ?面倒くさいね〜」それようのスタンプをいくつも探しながら、そして「よし、もっとシンプルにしよう!後ろの方々、他の窓口に行ってください。ここはしばらく封鎖します。」で、勝手に札止め。
「手動式アクセルブレーキで障害者が二輪に乗れる?おかいしいよね。」と一人言もいいながら書き換えている。そのシンプルな条件、「普通車は手動式アクセル及び主ブレーキのAT車に限る」になりました。さらに「総重量1.2t?何?まだこんな条件を持ってるの。別にハンドルは普通に回せるでしょう?書き換えるってこの事?1.5tに?面倒くさいよ。制限無しにすれば。」え〜〜っ?そんな事ができるの?という事は本当の念願だったボックスカーに乗れる!!やった〜。
「帖佐にある県の試験場に行って審査を受け、無制限にというか、重量制限を外す申請をしなさい。」と教えてくれた。この担当の方は前年まで、その試験場で免許審査の担当していたから詳しかったのです。ラッキーでした。本当に丁寧に教えて頂きました。ありがとうです。後の方本当に申し訳けなかったです。
そして、すぐに実行。試験場で申請し、審査を受けました。審査とは試験場内のコースを2000ccの車を試験官と一緒にしばらく回るだけです。妙に緊張してしまい、右折時、直進車を無視して行こうとし、ブレーキを踏まれてしまいました。S字とかも入ったり、T字路では、昔の試験の時のように「右よし、左よし」などと言ったら試験官が笑いながら「そこまで言わなくてもいいよ、そんなに緊張しなくていいですよ。試験じゃないんだから、見るだけです。ちゃんと運転できてますからOKです。」あらら。
晴れて、重量制限がとれました。万歳!これはうれしかったですね。もう早速、車を物色、先に書きました「トヨタ ライトエース」2200cc、8人乗りが手に入ったのです。この頃は仕事は順調だったので、現金で買いました。この車で、まぁあちこち行きました。次の項にて色々書きます。この項は終り。
障害者の車の免許-3
1996年(43歳)ぐらいまで、シティには乗り続けましたね。約12年、さすがに車はボロボロになりました。バックドアには穴が開き、終いには前輪の車軸が折れてしまいました。さすがにアウトでした。で、三代目を画策し始めました。シティは家族にとってかなりの愛着を持ってたんですが、私は正直、あまりいい車だったとは思っていません。色々出かけて本当に感謝しているし煩悩もあって別れる時はもちろん悲しかったです。しかし、買う当初からトラブルが続き販売会社(実はその時義兄が勤めていた)との関係も信頼を置けなかったのです。だからホンダ車自体嫌いになっちゃったんですね。実は一代目のカローラの時、そこから買ったわけではないのに、故障の時、非常に世話になったトヨタ系列の整備工場長さんがおり、次はそこの関係からと決めていたんですが、親戚の義理に負けてしまったのがいけなかったのです。
まず、ハイルーフのせいか、買ってすぐにギシギシ音がする、おそらく普通のシティに屋根だけ付け替えた。それが原因だったのでしょう。そして、一年過ぎた頃の冬、エンジンからカラカラ音がし出した。修理に持ち込むとエアコンのプロペラが折れてしまったそうだ。保証期間外なので、交換修理代80,000円ですと。なぬ!一年で故障してなんで?で、義兄を通して(そこはもう辞めていた)交渉、気の毒だから半分は販売会社が持つので40,000円は払って欲しいとの事。バカじゃないの?工場長と直接談判、「なんで、そうなるの?私が何か使い方間違いました?」「前年の冬の時、できたらたまにはエアコンを付けた方が良かったんです。」「そんなことどこに書いてあります?説明もなかったですよ。エアコンってそんなやわなの。」「そういう訳ではないけど、販売代理店としてはメーカーから買わなきゃいけないので。」「その事はこっちは関係ないです。じゃ、百歩譲って、もし交換修理をしたとする、次は壊れない保証はあるんですか?」「それは補強板を入れるから大丈夫です。」ほら、ボロがでた。こうなると私は厳しい。
「何?じゃクレーム商品じゃないか。補強するって、欠陥を認めたと同じでしょ。消費者センターと相談してしかるべき処置を取りますので、とりあえず車には一切手を付けないで下さい。私にとって車は足代わりだし代車もないから、営業にはタクシーを使いますのでご了承ください。それも手続きとらせて下さい。」で、交渉終了。
30分後、義兄と所長が慌てて相次いで電話してきた。所長「確かにクレーム商品に近いと思いますので、メーカーと交渉しました。交換品代は要りません。申し訳ありませんでした。」その後、義兄から「えらい脅したみたいだな。向こうは承知したみたいだけど、修理費7,000円だけは義理もあるんで払って欲しいけど。」少し怒り気味に言うんで「兄貴もちゃんとやってよ。脅しなんかじゃないよ。他の会社だったらこれだけじゃ済まさないよ。兄貴も義理があるだろうから払うけど、信頼のない会社にいたもんだね。」と皮肉たっぷりに言ってやった。身内のことながらあまり信頼のない兄なんで・・。
以来、ホンダファンには申し訳ないけど、ホンダには信頼は置いてません。結局、車検やメンテも義兄の頼みで別な整備工場でしました。でも、そこでも色々あったんで、障害者はしっかりしたディラーで買って、メンテもそこで受けるべきです。少々高くても。このトラブルは次に活かせました。
そうそう、肝心な三代目の車「トヨタ ライトエース」一番安い奴。念願の箱型。免許の重量は?ついに書き換える事ができました。次回・・・
阿蘇「夢高原キャンプ場」での我が愛車
障害者の車の免許-2
私のその時の(1976年)免許の条件は、「手動式アクセルブレーキ」「旋回式ハンドル装置付」「三・四輪に限る」「オートマチック車に限る」「総重量1.2tまで」とだらだらとなっておりました。特に「総重量1.2tまで」というのがかなりのネックでした。総重量が1.2トンという事は人を5人乗せたら、55kg×5人の275kg、総重量からそれを引くとなんと車重量は925kgと言う事になります。従って、その頃の普通車ではだいだい1200ccぐらいのものしか無かったですね。1400ccでカリーナだけでした。
私は結局、親から超のつく中古車、カローラを買ってもらい乗ったのでした。ま、正解で、違反はなかったものの軽微な事故が多くて車はボロボロでした。私が免許を取った時期から2〜3年すると、障害者の免許条件は少し緩和され、その総重量というのも確か1.5tまでになったようです。というのは多分、パワステの車が多くなったことからだと思います。そうなるとだいたいの普通車には乗れるようになりましたね。私は以前同じ条件のまま、その車に7〜8年乗り続けましたね。実は県の管轄する車の試験場に審査の申請すれば1.5tに書き換えられたようです。でも忙しかったのでそのままでした。後に換える事になりますが、それは次に・・・
二代目の車は、その1.2tの条件にあったホンダシティ・ハイルーフの新車を買いました。この時は結婚もし、子どもも3人になったので、色んな所に出かけるには少し狭かったのですが、まだ子どもは小さかったのでお袋まで乗せてあちこち行きました。5月の連休に限りでしたが、正月辺りから予約し家族旅行をし始めたのです。デザイナーとして独立仕立てで貧乏暮らしだったのでしたが、年に一遍はどっかにか行こうという事を決めて、そのために金を貯め、九州管内だけでしたがあちこちと行きましたね。
鹿児島県内、坊津、佐多岬、北薩、霧島全部いきました。日南、高千穂、柳川、福岡、呼子、別府、天草など楽しい時期でした。子供たちも今大人ですが、その旅行をかなり楽しみにしていたようです。これとは別に、仕事柄福岡でデザインの講習会などがあるんですが、ついでに家族も一緒に行ったもんです。その頃は高速も福岡まで繋がってなく、半分下道でしたので夕方たって八代から高速に乗り、福岡の近くの基山とパーキングエリアで車の中に泊まってました。1990年頃ですか、今でいう「車中泊」の走りだったですね。年度別に子どもを一人づつ交代で車中泊もしましたね。
障害者の車の免許-1
私は免許を取って、35年になりますが、30年前にスピード違反2回のみの違反でした。人身事故もありません。ところが5年前の2月についにスピード違反をしてしまいました。まもなく更新ですが、ゴールドは消えます。残念!
で、免許はどこで取ったかと言うと、大分の障害者用の教習所で取りました。そのころ鹿児島では取るのは車の持ち込みが原則でなかなか難しかったのです。そこの教習所は別府市(福祉指定都市)は補助を受けていて、教官も障害者の人がいました。そこに住所を移して取れば、10万円ポッキリで時間はかかっても仮免まではそれ以上は必要はありませんでした。もちろん本免許は別です。また、寮があって一日朝夕の食事付で1400円という好条件だったんで、福岡の大学卒業と同時にそこに行って取ったのです。
その時代の少し前までは障害者が乗れる車は障害者用に作った三輪車、基本原動機付自転車でした。すると1967年辺りからホンダのN360という軽ながら初のオートマチック車が登場し、軽自動車だったら障害者も大丈夫という事で、手動の装置を付けて障害者も手軽とは言わないが乗れるようになったのです。手動の改造はもっぱら整備工場がやってましたが、陸運事務局の審査が大変で、クリアするのに高くついてました。
1972年ぐらいになるとそのN360が製造終了になり、その代わり普通車の総重量が(乗人5人含めて)1.2トンまでのだと大丈夫という事になり、改造もそれ専用の会社もでき、障害者も割と気軽に車に乗れるようになったのです。
福田繁雄トリックアート面白世界
尊敬するデザイナーの一人、福田繁雄さんの面白グラフィックアート展を見に行った。
http://www.open-air-museum.org/ja/art/exhibition/shigeo_fukuda/index.htm
久しぶりの実に楽しい展示だった。
視覚のマジック、それにふさわしいあの方のいたずらというか、摩訶不思議な世界へ引き込まれた。普通に見てると見逃しがちですが、福田さんのそれはよく見ると深い意味がある。
学生時代は視覚心理は手前みそながら得意な方で、卒論もそれの一部でした。その所以もあっていつも福田さんのことはいつも注目していましたね。
25年ほど前、鹿児島に来鹿されたときも講演も聞きに行ったし、懇談会のパーティでは一時間近く話しもしていただいた。
今も記憶に残るのは、ローカルのデザイン事情の嘆き話をしたとき、的確なアドバイス、いやデザインの根幹に関わる素晴らしい意見を頂き感激しました。割愛しますが、やっぱ、一流は揶揄ではなく、どっか違います。
遠めに福田さんのファッションを見たとき律義にタキシードを着ておられたので、驚きましたが、さらに驚いたのは、お話しを伺いに近くに行きましたら、なんとタキシードの柄を編んだセーターでした。
失礼ながら、笑いましたが奥さんが編まれたとの事、福田マジックにまたまた翻弄されました。
ファンでもあるので、ほとんどの作品は見てましたが最近の作品も拝見でき、満足の行く素晴らしい一日でした。
福田視覚マジック、永遠なれ!お勧めします。
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